虚構しか残らない今の日本を

突破者として蹴やぶったる


江弘毅一本誌


宮崎学との対話


「人をうらやましがることしか考えられないような街、それが酒鬼薔薇事件の舞台やと思う。コンビニとファーストフード屋しかない街をつくってそれが清潔やとする感性。となりの人がアウトドアの4WD買ったから、ウチもほしいわ、という意識。気持ちが悪いとしかいいようがない」

関西の街の雑誌の編集者としての筆者に、発言のあと「そやろ。分かるやろ」と必ずつけ加え、じっくり語る氏は、まさに街の大先輩であり顔役といった感じのタッチで象徴的かつストリート的ともいえる街の観点から淡々と語る。日来あった共同体、そこには庶民がいた。

それを市民とか市民運動という耳ざわりのいい言葉の下、どんどん壊してきた。その市民という概念がマニュアル的な新興住宅地をつくり、メリットかデメリットかでしか物を考えられない人間をつくってきた。援助交際とか不倫とかもすべてそんなところから出ている。たとえばブランドものをほしいから、それを盗んでパクられることと、売春でパクられることと、どっちが恥ずかしいか、そのあたりを全く誰も教えていない。少年のナイフ所持についても、先生に見つかるまでなぜ親が気がつかないのか。「そんなもん持って、アンタ何する気や」、とならない親が多すぎる。それが市民の実体だ。駅前にパチンコ屋すらないところをつくった市民の感性のとんでもないまちがいだ、と思う。

徹頭徹尾アウトローの側からの観点による発言だ。と言うが、大阪の旧い街に育った者にとっては、とてもオーソドックスかつオーセンチィックな内容である。

 「旧来の共同体には必ずヤクザがいた。広域暴力団の抗争でおびえる市民、とかいうテレビの報道がよくあるが、本来の共同体なら、エラい大きなケンカやけどどないなったんやろなあ、というのが庶民的な感覚だと思う。そりゃ迷惑には違いないが。けれども人の社会というのは、子が親に迷惑をかけるのがあたり前のように、他人の迷惑をどれだけ許容できるか、という懐の深さが必要だ。みんな誰かれなく他人に迷惑をかけるものだ。あそこのおっちゃんまた夜逃げしたでとか、また戻って来たでとか、それが本来の共同体だし、文化とも成り得るものだ。関西や九州という西日本はそういう土壌だ。心地よい言葉でくくろうとするとドえらいことになる」


ヤクザというアウトロー、教育問題、企業や官僚や政治家…すべての社会的事象に関して、同ベクトルからの鋭い現代批判が続く。

 「カネのためなら何でもする。親分/子分の関係を捨ててまで広域暴力団にトラバーユする。金と名誉と組織という今の社会。そこからもともとドロップアウトしたヤクザすらそう変質してきている。その最たる典型が学校教育で勉強しなさい、という母親や。学校はその結果、岡光厚生事務次官であり新井将敬をつくってしまうしかない。金と名誉と組織からいかに自由であるか、それが今、一番大切なことではないか。

 『不逞者』で書いた愚連隊の神様・万年東一はヤクザが本当に嫌いだったし、金や組織とは無縁だった。そこに美意識すら感じる」「大量生産、大量消費による時代になってここまできたけれど、何となくムードで人をあおって物を買わそう、という広告代理店的な消費社会は限界にきている。

 政治も同じで、カネがあるということで選挙に勝ってきたけれど、もはや投票寧が50%でその過半数が25%だ。残りの75%を25%で抑えていることになる。その虚構のまま物を進めていっても、もう動かない。


 マニュアル通りのイベント、つまり人を集めることから盛り上げることさえマニュアル化しようとする無臭なデオドラント的社会よりも人聞の臭さや性(さが)、それがこれから重要になってくる。だから世の中は意外ともろい形でつぶれてゆく。そのガラスの箱の底を蹴やぶったろ、というのが僕の意図だ。何しろ元々こばち屋(解体屋)やから」

 1998-06号 no102より

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