ホーム

宮崎学 miyazakimanabu.com

次の自民党総裁は福田康夫が有力

 かなり久しぶりの更新の宮崎学である。

 安倍が総理辞職を表明した。

 ワシはそのとき昼メシを食い始めたところだったが、報道とともにいろんなところから携帯に電話がかかってきて、メシどころではなくなりエライ迷惑な辞任劇であった。昼メシ時にこの騒ぎで、マスコミの連中や国会関係者たちも同じようにメシが食えなかったんやないか。こういう細かいところでも最後までKYなヤツであった。

 さて、この数日のあいだ、ワシの元へ届いた情報によれば、次の自民党総裁は福田康夫でほぼ決まりそうな情勢である。
  報道では後継総裁には麻生が有力とされているが、党と自公政権の延命、小沢民主党が相手としてやりにくい総裁は誰か?と考えれば、自民党内や公明党は、麻生より福田のほうがいい、ということなんだろう。
 だが、その福田が総理総裁になったとしても、もはや自民党の崩壊は食い止めることはできず、麻生よりはほんの少しマシというだけで、新政権は早い段階で行き詰まるはずである。

 情勢は日々変わるもんであるが、もっと詳しいウラ情報が知りたいというヤツは、ワシまでメールを送ってきなさい。マンツーマンで丁寧に解説してやるで。ただし解説料は時価なのである。

書評『近代ヤクザ肯定論』 佐藤優 文藝春秋2007/9月号

ヤクザ組織の内在的論理を社会学的に解き明かす

評者 佐藤優(起訴休職外務事務官・作家)

 ソ連時代末期から、ロシアではマフィアが政局に与える影響を無視できなくなった。ロシアの場合、表の世界と裏の世界が未分化なので、国会議員や有力企業家で、同時にマフィア幹部という事例も少なくない。評者が現役時代に付き合っていた要人にもこの範疇の人々がいて、その内、二人がカラシュニコフ銃で蜂の巣にされ、一人は爆弾で粉々にされた。クレムリン高官、国会議員、学者などから「日本のヤクザについて教えてくれ」という質問をよく受けたが日本人の書いたもので、ロシア人の知的関心を満たす作品がなかなかない。評者は、これまでイスラエルの日本学者ヤコブ・ラズ教授の『ヤクザの文化人類学』(岩波書店)で展開した分析を援用して説明していた。今回取り上げた本の著者である宮崎学氏は、京都の寺村組組長の息子で、幼少の頃からヤクザ文化に慣れ親しんできた。その特権的地位を最大限に活用し、本書でヤクザの内在的論理を解き明かした。評者も今後は、本書の内容を踏まえた上で、ロシア人にヤクザについて知的好奇心をより満たす話をすることができる。

 本書の内容は暴力団批判でもなければ、山口組礼賛でもない。近代産業社会は、必然的にその仕組みに乗ることが出来ない人々を作り出す。そのような人々を受け容れる社会団体が必然的にできるという社会学的視座から書かれた「近代ヤクザ必然論」である。〈そもそも近代ヤクザとは何であったか。/遊び人の集まりだったわけではない。日本に近代社会が形成されるなかで、そこから疎外されていった者、周縁に追いやられていった者、そうした者たちは、生きるためにおたがいに結びつかざるをえなかった。その結合のひとつのかたちとして生まれてきた「組」的団結、それが近代ヤクザの基であった〉(二三九頁)。本書から、ヤクザ業界で山口組が急成長する基盤は組織力にあることがわかる。山口組は戦後の混乱期に一般の労働組合以上に神戸の港湾労働者の組織化に成功し、基礎体力をつけた。その頃、警察力が十分でなかった日本国家は、サブシステムとしてヤクザを治安維持のために利用する。しかし、国家は本質的に嫉妬深い存在で、暴力を独占したがる。ここから国家による山口組に対する徹底的な壊滅作戦が展開されるが、山口組はそれを生き延びる。その秘訣は、山口組が牧歌的な任侠社会主義から、官僚型組織と巨大資本による極道帝国主義に転換したからである。

 しかし、官僚型組織の統制下では、疎外され、周縁部で生きることを余儀なくされた人々は息苦しくなる。それに加え、経済至上主義がヤクザにも浸透してきた。〈素人がゲーム賭博に手を出すようになっていったのと対照的に、バブルのころになると、博徒が博奕をやらなくなってしまった。なぜか。ほかでもない。ビジネスの世界のほうが、バブル経済によって、すっかり博奕化して、そこでもっと大がかりなギャンブルができるから、わざわざ賭場に行く必要がなくなったからだ〉(三五九頁)。近代ヤクザは経済に溶解していきつつあるのである。ロマンチストである宮崎氏は、アジアを舞台に活躍する「超近代の無頼」が出てきて国境を越えたヤクザの形成に期待する。現実主義者の評者はロシアマフィアが国境を越え、経済ヤクザとの提携を強めていく可能性を懸念する。

 相手の内在的論理を正確に把握せずに的確な対処をすることはできない。ヤクザを相手にする企業や官庁の総務関係者にとっても本書は「実用書」としての価値をもつ。

書評『近代ヤクザ肯定論』 前田年昭 週刊読書人2702号

下層社会からしか見えてこない日本近代の姿

評者 前田年昭(編集者・アジア主義研究)

 ある書店でヤクザ本コーナーに平積みされていたが、本書はむしろ歴史書(日本近代史)のコーナーにこそ置いて欲しい。体系的で網羅的にまとめられた近代日本ヤクザ史であるだけではない。強い者が勝つ、さらに勝った者が正しいという正史に対する歴史観の問い直し,いわば叛史の企てでもあるからだ。
 著者の問題意識はあとがきに示されている――ヤクザから見たとき日本の近代はどう見えてくるのか、そこからしか見えてこない近代の姿は何なのか。広範囲な取材、さらに「直接参照したものにかぎり」として挙げられた約二百にのぼる参考文献からの精髄を「山口組の九〇年」史に編み上げた渾身の労作である。
 第一章(山口組の誕生)、第二章(新興山口組の発展と衰退)、第三章(闇市の混沌のなかから)、第四章(港の顔役)と読み進んでいくうちに、読者は、山口組が神戸の地域社会に根をもち、港湾荷役と職域共同体から生まれ、芸能興行を含めた生業を通じて発展したことを知る(田岡一雄は終始組員に職業をもたせることに尽力した)。被差別部落民と在日朝鮮人を多く含む下層社会のメシの食い方であり、「ヤクザは親権力でも反権力でもない。生きていくため、みずからを権力として社会的に立てなければならなかった者たちの対抗権力だったのだ」。たとえば有毒ガスの発生する荷役現場で下請労務者の安全を守る実力闘争を山口組はやり抜く。一次下請・常雇労働者しか組織しえなかった既成の労働運動に対して下請アンコ労務者を組織した山口組の闘いの歴史的事実は、日本“左翼”の抜きがたい“上から目線”に対する批判でもある。
 本書の白眉は第六章(高度成長と全国制覇)で描かれた、絶頂にあった田岡一雄と山口組が高度経済成長期に基盤を浸蝕されていく経過であろう。機械をリースで借りた人夫供給業者が「機械付きで労働者を派遣」するかたちから、労働者を調達した機械リース会社が「労働者付きで機械を派遣」というかたちに変わっていった。港湾荷役の業態と労働組織の急激な変化はやがて、山口組をして自らが根ざしていた下層社会の基盤から遊離せしめていく。第九章(近代ヤクザの変質と終焉)では下層社会の統括者としての組の役割を終えたヤクザの変質、終焉に至る過程が描かれ、近代ヤクザ史が締めくくられる。
 宮崎氏の「近代ヤクザ肯定」論は、ヤクザを権力の狗だとする通説への反論としてヤクザの隠れた進歩性を立証しようとしたものではない。反動とされていたものを進歩として復権したとしても、反動自体のうちにひそむ意味を抹殺することになるからである。ヤクザ史から“暴力”を負の側面として取り除いて積極面を取り出そうという試みは歴史の偽造でしかない。事実、釜ヶ崎・山谷の労務者によって組織された釜共闘‐日雇全協に敵対したのもまたヤクザである。「肯定論」は下層の人びとの、メシを食うことを背骨にした歴史観として読まれるべきであろう。
 近年の派遣フリーターの急増は新たな人夫供給業者を伸展させている。労働現場では親方子方制関係はすでになく、港や寄せ場という地域のつながりもなく流動する、新たな難民、流民、遊民である。宮崎氏はどう見るのか、ぜひきいてみたいものである。氏は、ユニオン(組合)的団結に対するバンド(組)的団結の復興、民衆レベルでの相互扶助としての中国民衆の秘密結社「幇(パン)」の再生のなかに「超近代の無頼が生まれ出て」くることに希望を託す。「その萌芽は、いまのところ、ほとんど見られない……(にもかかわらず)その可能性が現実にならないかぎり、われわれはアジアで生きのびていくことはできないのではないか」との著者の熱い思いには心から共感できる。毛沢東と中国革命が劉志丹はじめアウトローたちを組織し、下層の遊民たちにメシを食えるようにした歴史的事実を評者は想起するからである。
 滅んでいった近代ヤクザを生んだ下層の人びとに対するやさしい視線のゆえにか、約九百枚の大著ながら一気に読める。予告された続編『近代ヤクザ論序説』(仮)の刊行が待たれる。

著者インタビュー『近代ヤクザ肯定論』 エコノミスト(毎日新聞社)2007/0828号

― 力作ですね。山口組を通して見た日本社会史で、とても面白く読めました。ベストセラーの『突破者』と並ぶ代表作だと思います。

■ 取材に5年ぐらい掛かっているからね。話を聞いた人も100人は超えている。ヤクザというものに、僕なりの結論をつけようと思って書いたから。学生時代は左派的なものにとらわれて見えなかったものもあったが、今の視点は全然違う。そこで山口組というプリズムを通して日本の近代史を見たらどうなるか、と考えたわけだ。

― 発生論では、近代ヤクザは、沖仲仕のような港湾荷役を担当する労働組織から生まれたということですね。

■ そう。ヤクザはイデオロギー集団じゃなく生活共同体だった。社会の最下層の人たちが、生きるために親分の下に集まって生まれた。港湾荷役は、不熟練労働者を集めた人材派遣業みたいなもので、ヤクザのような強い統率力が必要だった。山口組もそうした一つで、地域という「ムラ」に根ざした共同社会型ヤクザだった。

― そんな共同社会型から、高度成長とともに利益社会型ヤクザに変化していく時、山口組には先見性と経営者としての才覚がある田岡一雄というカリスマがいたわけですね。

■ 田岡3代目は、貧困と差別でドロップアウトして自分の下に集まってきた男たちを、どう食わせるかを考えた。組員に正業を持てと勧め、それが港湾荷役と芸能興行の企業だった。日本経済が高度成長を迎え、それらの業種からヤクザが追い立てられると、今度は企業社会の「負のサービス」に進出する。企業という「ムラ」社会のすき間に活路を見いだした。

― ヤクザは経済社会の「負のサービス」を担当している、と書かれていますが、面白い考え方です。

■ 近代ヤクザは創設時から経済と密接している。企業社会になっても裏の世界にはニーズがあった。総会屋、整理屋、取り立て屋、サルベージ屋などだ。民事介入暴力、同和利権などの利権にも食らいついた。山口組はこれらの新しい生業をいち早く取り入れた。今だってヒルズ族がもてはやされているが、かつての人材供給に代わって、今はカネそのものを供給するようになっただけ。誰のカネか分からんカネが投資に動いているじゃないですか。

― でも国も取り締まりを強化し、新法でたたいた。それでも山口組は生き延び巨大になった。なぜでしょうか。

■ ヤクザは、生きるために自らを権力とするしかない集団だ。国家権力がつぶそうとすれば、生き残るためにすき間に逃げ込む。小さな組はつぶされても、山口組はその組員を吸収して大きくなる。格差社会の今、ニートやネットカフェ難民などの下層社会はすでにできていて、仕事を持ってきてくれるヤクザがいれば、多少やばいことでもやるやつは必ずいる。実働部隊のフリーター化・派遣化だ。近代ヤクザはいなくなったが、こういうヤクザはなくならないと思う。

(聞き手=長倉正知・毎日新聞情報調査部)

借金考・再論

本音のコラム(20回目)7月17日付

 5月22日付けの本欄で「借金考」を書いたところ、読者諸氏からたくさんのお叱りや励ましを頂いた。この場を借りてお礼を申し上げるものである。

 そこで今回は、もう一度カネの貸し借りについて記す。

 借りたカネを返すのは当たり前のことであるから、これを否定する筆者のような考え方は不道徳であるという意見がある。誠にごもっともである。

 だが、借りたカネを約束どおり払えない。ここに市井の人の悩みがある。また、生きるためにはカネを借りなければどうしようもないという事情も、人の長い人生の中では起こりうる。つまり、返せなければ借りなければいいという理屈では解決のつかない修羅場が人にはある。

 きれいごとでは済まないことがあるのが世の常とするなら、そのきれいごとを金科玉条のごとく唱える例えば親の子に対する行為が、どれだけの情愛の発露と言えるのだろうか。

 借りたカネを約束どおり払えない、また将来払えなくなるかもしれないカネをも時には借りざるを得ない。そして結局は払えなくなる。こうした時に人としてどう対処すべきかを教育するのが親の愛である。

 借りた金を返せなくなった時、「返すのが人間だ」と言われていた者にとっては、結論としては自死しかなくなる。筆者は金より命が尊いと考える者である。金ごときのために自らの命を絶たせる「道徳的」的な規範を拒否する。まして子供の自死に連なる親のしつけなるものも。

動物、女性、子供

本音のコラム(19回目)7月10日付

 不況が続く日本の映画産業なかで、比較的リスクの少ないストーリーとして重用がられているのが、動物、女性、子供が登場するものとされている。

 これは映画に限らずテレビを含む映像のキーワードでもある。

 こうしたことから見ると、湾岸戦争時における油まみれの海鳥、今回のイラク戦争での女性捕虜などは、プロパガンダの手法としては現代的で理にかなったものとは言えよう。

 ところで、社会の諸現象は「結果」である。それには必ず「原因」がある。この視点からイラク戦争を捉え返してみると、この戦争の原因は「大量破壊兵器の存在」であった。

 ところが、ソレがないというのが結果であった。原因がなく結果だけがあったのである。こうなると、米英に残された最後の手段としては、原因を創造するしかない。そこで、映像メディアの手法が助け船となる。

 例えば、ジョージと呼ばれる賢い軍用犬が砂漠に埋められていた大量破壊兵器を見つけたというストーリーが考えられることとなるであろう。そしてジョージがニューヨークに紙吹雪の凱旋を行う。これなどは好まれそうな絵柄である。もともと大量破壊兵器の最大の保有国は米であることは周知の事実であり、米本国からこっそり運び埋めておくなどお手のものであろう。

 結果と原因に対する冷静な考察が放棄され、映像的に創られた結果だけで時代が流れていることには、違和感を越えた閉塞感を抱くものである。

甲区と乙区

本音のコラム(18回目)7月3日付

 土地、建物などの不動産の登記ほど現代社会の「幻」性を物語るものはない。

 土地、建物の登記簿は所有権を示す欄として甲区といわれる部分、抵当権等を示すものとして乙区とする部分に分類されている。

 例えば住宅ローンで一戸建てを購入した場合、甲区には「所有者」の名前と住所などが記載され、乙区にはローンを組んだ銀行などの金融機関名と借入金額などが記載されている。国民の間に強くあるとされる「持ち家」願望というものは、結局のところこの甲区欄に自らの名前を記したいというものである。

 ところが法的にはなるほど甲区は所有者と言うことであるが、ローンの返済が滞れば、自動的に乙区の抵当権者が権利を行使し競売ということとなり、所有権者の立場は抹消される運命になる。極論すれば、甲区は店子、乙区は大家の関係に近いものと思われる。

 大家は店子が月々の支払いが出来なくなればいつでも追い出せるという権利関係にある。

 そうだとするなら、ローンで家を買うという行為が果たして「持ち家」願望を実現するものと言えるのだろうか。そのうえ、仮に30年のローンを組んだとした場合、その発想の根底には30年間病気もせず無事に過ごし、なおかつ定期的収入が継続するという大前提がある。これは「幻」というのではないだろうか。甲区欄に名前を記すということが「持ち家」願望の実現と思いこみ「努力」することの意味は、実に虚しい。

多数派の性向

本音のコラム(17回目)6月26日付

 世の中には理解に苦しむことがたくさん起きるものである。例えば、テレビの視聴率の最近の傾向として、イラク戦争中にもかかわらず北朝鮮報道の方が視聴者に好まれ視聴率が高いということなどもその一つである。

 テレビが流す北朝鮮報道の特徴は、表面的な現象を同じ映像と同じ趣向で繰り返し流すというものである。北朝鮮という国家、朝鮮労働党という党が、歴史的、国際的にどのように形成され、何故結果として悲劇的な現状に立ち至っているのかと言うことを報道した番組にお目にかかったことはない。しかしイラク戦争報道の場合は北朝鮮報道とは違い、その原因と結果、そして論理を報道しなくては、テレビ番組として成り立たなかった。こうして曲がりなりにも目の前で起こる事態の原因と結果を検証しようとする報道を視聴者が好まなかったということなのであろう。

 目の前で起きる事態への「情緒的」で「軽い」反応、それが現在の多数派の性向である。この性向は、小泉内閣の支持率と通底するものである。つまりリストラにあってもなお「痛み」を与えた政権を支持するサラリーマンとその家族の気分がこれである。イラク戦争報道よりも北朝鮮報道を好む気分と同質のものである。

 原因があるから結果がある。小泉内閣の失政があるから今の不況が、そしてリストラが倒産があるのだ。こうしたことの原因をこの国の多数派は見たくないようである。

対立と相似

本音のコラム(16回自)6月19日付

 社会には、様々な対立がある。またその対立が歴史を動かしてきた原動力でもある。この対立には、民族、宗教、国家、階級、党派、そして文化等々があり、その種類は実に多様である。

 ところが、その対立は厳しければ厳しいほど対立する相互が瓜二つのものになっていくという宿命的ともいう特徴がある。例えばユダヤとナチである。ナチによって徹底したジェノサイト(民族浄化)の被害を受けたユダヤは、まったく同質の行為を今パレスチナに行うこととなっている。

 こうした例もある。旧ソ連を中心とする社会主義と対立したアメリカは、旧ソ連がスターリンの下に企図した「革命の輸出」と同質の「グローバリズム」を今求めるに至っている。

 つまり対立し敵対した相手の悪しき体質をさらに純化させ、その胎内に醸成していくということである。

 こうして対立は新たな対立を再生産するという輪廻転生的な側面を持つ。とかく人の営みとは、かくも空疎なものなのである。そうであるなら、人は対立する渦中にあるとき、その対立は虚ろなものであると言うことをどれだけ自覚できるかが「知」の水準ということになるのではないだろうか。

 そして今アメリカは反テロリズムということでイスラムと対立している。また日本は反北朝鮮と言うことで対立の感情を露わにしている。こうしたことの結果がそれぞれの内にテロリズムと朝鮮労働党的なるものを間違いなく育んでいくのである。

表象性なき敵

本音のコラム(15回目)6月12日付

 人の歴史は闘いの歴史である。この言葉はけだし名言である。

 人は戦うときに数々のドラマを体験する。それが蓄積されて、文化が生まれる。

 闘いの中での喜怒哀楽は実に身に迫る説得力を持つし、共感を呼ぶものである。

 しかし、現代に本当の闘いというものが存在するのかどうかは、はなはだ疑問である。

 サッカーや格闘技熱は、それを見物する側が感情移入し、あたかも自らが戦っているかのような錯覚を楽しむというものである。この際、自らは絶対に安全なところに身を置いているということにその特異性がある。

 さらに、そこで展開される、サッカーにしろ格闘技にしろ、それは闘いではない。闘いを連想させる擬似行為である。

 擬似行為を闘いと称し、それを見物することも闘いと思いこむこの精神は、自らが敵とするものが表象性を喪失したことから始まったと思われる。

 たとえば国家権力を敵としていたとき、機動隊という存在は、暴力という表象性を持っていた。そして、この敵と対峙している側には、肉感的な情感が蓄積され、それなりの文化が形成されたものである。

 それがいつ頃からか変化し始め、国家権力=暴力という表象性が消失したかのように見える。権力がバーチャルなものとなるに連れて、それと対峙する側も同様になってしまう。

 こうして、人の歴史は闘いの歴史という言葉がその血肉性をなくしていった。

 はたしてこの名言の復権はあるのだろうか。

ホーム

Feeds

ページの上へ戻る