宮崎学 miyazakimanabu.com
幻のコラム 第3回「再びのシナリオライター」
- 2007-11-02 (金)
- 幻のコラム
確かに年をとると物忘れが激しくなる。最近、人の名前と顔が一致しなかったりすることが多くなってきた。
しかし、10月29日の衆院テロ防止特別委員会での、守屋武昌前防衛省事務次官の証人喚問の報道は、5年前の鈴木宗男氏喚問時のイヤな感じの記憶を鮮明によび起してくれた。
5年前、辻元清美議員が「疑惑の総合商社」と声を荒げて鈴木氏に迫る映像を見ながら、私は「イヤな感じ」を持った。この時の喚問の直後には、検察の手によって逮捕されることが確実な鈴木氏を問いつめることへの反発があった。それは、国家権力の手のうちで踊らされ、つまるところ、権力に担保された辻元氏の質問の言葉だけの「戦闘性」への私的な拒否反応であった。その後生まれた「国策捜査」という言葉の契機となった喚問だった。
さて、そこで今回の喚問である。鈴木氏の時もそうであったように、今回も検察権力は、そのシナリオの中でこの喚問を位置づけているであろう。
例えば、誰が、守屋氏が200回を超える業者のゴルフ接待をリークできるのは、検察以外にはないことは明らかだ。そうだとするなら、必ず「国策」性を持つ検察の捜査の一部品として今回の喚問を見る必要がある。
しかし、日本にメディアは、その部分にだけは今回も触れることはない。日本のメディアの知力は、物忘れが激しくなってきた私の脳ミソと、どっこいということなのか。
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幻のコラム 第2回「頭の整理」
- 2007-10-26 (金)
- 幻のコラム
ここ数年、’60年世代の私達の間では、小泉政権から安倍政権へと続く流れの中で、「改憲」についての危機意識が高まったということがあった。
齢60才を超えた者達が、人生最後の政治参加の機会として、つまり死に場所として、この「改憲」反対の運動に過剰なる思い入れをしていた。
しかし、私は、同世代のこの種の発想には、ほとんど共鳴することができなかった。その理由は、この国においては、どのようなスローガンをかかげた運動であっても、キャンペーン型の運動の域を出ないのであって、それは意味がないと考えるようになったからだ。
もちろん、ある個人や、ある団体が政治目標をかかげて、広く国民を覚醒させるべく行う啓蒙型の活動があってもそれは自由ではある。私が問題とするのは、その活動を行う人々の中にある、「目覚めた私と眠った民衆」という旧態依然たる発想のことである。この発想の中には、「正しい自分」が存在している。これをつきつめていくと、「自分は正しいが、他人は間違っている、間違っているとは言わないまでも、わかっていない」ということになる。この発想が私は嫌いなのである。
私は人間などというものは、実にいいかげんなものであって、何度も何度も間違いを犯して人生を歩むものと思う。だから「自分は正しい」などとは、恥ずかしくて言えないと思う。’60年代の友人達がこの点について自己切開なしに「新しい」スローガンをかかげることに共鳴できない理由はここにある。頭の中を整理することから私は始めようと思う。
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幻のコラム 第1回「台湾で民主主義を考えた」
- 2007-10-20 (土)
- 幻のコラム
5年ぶりの台湾である。
10月に入って、親しかった徐さんと陳さんが相次いで、それも同じ10月4日に永眠してしまった。
今回の訪台は、徐さんの告別式に出席するためだ。
さて、台湾に来ていつも思うのは、民主主義という考え方のなかでは重要とされる選挙という「制度」が、台湾の民衆の歴史にとっては、私達が考えるほどの「有効性」を持たなかったのではないかということだ。
自分が投票する1票が指導者を決定するということよりも、私の知るかぎりの台湾の友人達は、「英雄」としての指導者が出現してくれることを待望している。「制度」ではなく「人」が重要という考え方だ。
なるほど、「制度」というものは、本当の意味での「人」を潰してしまうことが多い。つまり、選挙という制度では英雄を生むことはない。このジレンマのなかで、民衆の歴史は漂流し続けるのではないかと私は思う。
私などは例えば、個人崇拝を条件反射的に否定してきた世代だ。ところが、私は今の齢に達して逆に、個人崇拝ができることの「幸福」もあるのではないかと思いはじめた。民主主義では許容されることのない領域の中で持つ喜怒哀楽こそが、人間本来のものであって、民主主義の下では成立しない情念が存在しても、それはおかしなことではないと考える。
台湾の友人が毛沢東の個人崇拝を苦々しく思いつつも、毛沢東が「英雄」であったことは否定しないのもわかる気がした。
さて、来春台湾では選挙が行われる。友人達の姿を見に訪れようと思った。
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幻のコラム連載開始!
- 2007-10-09 (火)
- 幻のコラム
来週(10月19日金曜・予定)から、このブログにて宮崎学によるコラムの連載を開始します。
小泉劇場型政治や自己責任論などの「世論」に真っ向から対峙した、東京新聞「本音のコラム」終了から約2年、宮崎学による「幻のコラム」が再びやってきます。
更新は毎週金曜日を予定しています。乞うご期待!
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新刊 宮崎学コーディネイション『佐藤優 国家を斬る』
- 2007-10-02 (火)
- 書籍
著:佐藤優=起訴休職外務事務官
コーディネーター:宮崎学
連帯運動/編
同時代社
定価1200円
ISBN978-4-88683-615-1
◆「国家主義者」佐藤優が「国家」と闘う論理。
◆「官僚階級」による収奪の構造を衝く。
◆「左翼」との、少し分け入った対話。
■主な内容■
・反権力自由主義者としての佐藤優/宮崎学
・「国策捜査」と時代の「けじめ」/佐藤優
・現代日本の官僚階級/佐藤優
・対談:官僚階級の相貌/佐藤優・宮崎学
「佐藤は、国家権力による(佐藤自身のことばによれば)「国策捜査」の犠牲になり、それに抵抗することで反権力の立場に立つようになった。といっても、かつての左翼にありがちだった<権力=悪>という先験的な反権力ではない。佐藤は国家主義者で、国家が社会を正しく秩序づけることを考えているのであって、<権力=悪>とはとらえない。しかし、<正しい権力>と<悪い権力>とがあって、国家は<正しい権力>にならなければならない、という国家主義者でもない。権力はつねに必要悪であって、悪い作用もするのだが、それも含めて必要なものだ、という立場なのだ」(宮崎学)
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次の自民党総裁は福田康夫が有力
- 2007-09-13 (木)
- 政治・経済
かなり久しぶりの更新の宮崎学である。
安倍が総理辞職を表明した。
ワシはそのとき昼メシを食い始めたところだったが、報道とともにいろんなところから携帯に電話がかかってきて、メシどころではなくなりエライ迷惑な辞任劇であった。昼メシ時にこの騒ぎで、マスコミの連中や国会関係者たちも同じようにメシが食えなかったんやないか。こういう細かいところでも最後までKYなヤツであった。
さて、この数日のあいだ、ワシの元へ届いた情報によれば、次の自民党総裁は福田康夫でほぼ決まりそうな情勢である。
報道では後継総裁には麻生が有力とされているが、党と自公政権の延命、小沢民主党が相手としてやりにくい総裁は誰か?と考えれば、自民党内や公明党は、麻生より福田のほうがいい、ということなんだろう。
だが、その福田が総理総裁になったとしても、もはや自民党の崩壊は食い止めることはできず、麻生よりはほんの少しマシというだけで、新政権は早い段階で行き詰まるはずである。
情勢は日々変わるもんであるが、もっと詳しいウラ情報が知りたいというヤツは、ワシまでメールを送ってきなさい。マンツーマンで丁寧に解説してやるで。ただし解説料は時価なのである。
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書評『近代ヤクザ肯定論』 佐藤優 文藝春秋2007/9月号
ヤクザ組織の内在的論理を社会学的に解き明かす
評者 佐藤優(起訴休職外務事務官・作家)
ソ連時代末期から、ロシアではマフィアが政局に与える影響を無視できなくなった。ロシアの場合、表の世界と裏の世界が未分化なので、国会議員や有力企業家で、同時にマフィア幹部という事例も少なくない。評者が現役時代に付き合っていた要人にもこの範疇の人々がいて、その内、二人がカラシュニコフ銃で蜂の巣にされ、一人は爆弾で粉々にされた。クレムリン高官、国会議員、学者などから「日本のヤクザについて教えてくれ」という質問をよく受けたが日本人の書いたもので、ロシア人の知的関心を満たす作品がなかなかない。評者は、これまでイスラエルの日本学者ヤコブ・ラズ教授の『ヤクザの文化人類学』(岩波書店)で展開した分析を援用して説明していた。今回取り上げた本の著者である宮崎学氏は、京都の寺村組組長の息子で、幼少の頃からヤクザ文化に慣れ親しんできた。その特権的地位を最大限に活用し、本書でヤクザの内在的論理を解き明かした。評者も今後は、本書の内容を踏まえた上で、ロシア人にヤクザについて知的好奇心をより満たす話をすることができる。
本書の内容は暴力団批判でもなければ、山口組礼賛でもない。近代産業社会は、必然的にその仕組みに乗ることが出来ない人々を作り出す。そのような人々を受け容れる社会団体が必然的にできるという社会学的視座から書かれた「近代ヤクザ必然論」である。〈そもそも近代ヤクザとは何であったか。/遊び人の集まりだったわけではない。日本に近代社会が形成されるなかで、そこから疎外されていった者、周縁に追いやられていった者、そうした者たちは、生きるためにおたがいに結びつかざるをえなかった。その結合のひとつのかたちとして生まれてきた「組」的団結、それが近代ヤクザの基であった〉(二三九頁)。本書から、ヤクザ業界で山口組が急成長する基盤は組織力にあることがわかる。山口組は戦後の混乱期に一般の労働組合以上に神戸の港湾労働者の組織化に成功し、基礎体力をつけた。その頃、警察力が十分でなかった日本国家は、サブシステムとしてヤクザを治安維持のために利用する。しかし、国家は本質的に嫉妬深い存在で、暴力を独占したがる。ここから国家による山口組に対する徹底的な壊滅作戦が展開されるが、山口組はそれを生き延びる。その秘訣は、山口組が牧歌的な任侠社会主義から、官僚型組織と巨大資本による極道帝国主義に転換したからである。
しかし、官僚型組織の統制下では、疎外され、周縁部で生きることを余儀なくされた人々は息苦しくなる。それに加え、経済至上主義がヤクザにも浸透してきた。〈素人がゲーム賭博に手を出すようになっていったのと対照的に、バブルのころになると、博徒が博奕をやらなくなってしまった。なぜか。ほかでもない。ビジネスの世界のほうが、バブル経済によって、すっかり博奕化して、そこでもっと大がかりなギャンブルができるから、わざわざ賭場に行く必要がなくなったからだ〉(三五九頁)。近代ヤクザは経済に溶解していきつつあるのである。ロマンチストである宮崎氏は、アジアを舞台に活躍する「超近代の無頼」が出てきて国境を越えたヤクザの形成に期待する。現実主義者の評者はロシアマフィアが国境を越え、経済ヤクザとの提携を強めていく可能性を懸念する。
相手の内在的論理を正確に把握せずに的確な対処をすることはできない。ヤクザを相手にする企業や官庁の総務関係者にとっても本書は「実用書」としての価値をもつ。
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書評『近代ヤクザ肯定論』 前田年昭 週刊読書人2702号
下層社会からしか見えてこない日本近代の姿
評者 前田年昭(編集者・アジア主義研究)
ある書店でヤクザ本コーナーに平積みされていたが、本書はむしろ歴史書(日本近代史)のコーナーにこそ置いて欲しい。体系的で網羅的にまとめられた近代日本ヤクザ史であるだけではない。強い者が勝つ、さらに勝った者が正しいという正史に対する歴史観の問い直し,いわば叛史の企てでもあるからだ。
著者の問題意識はあとがきに示されている――ヤクザから見たとき日本の近代はどう見えてくるのか、そこからしか見えてこない近代の姿は何なのか。広範囲な取材、さらに「直接参照したものにかぎり」として挙げられた約二百にのぼる参考文献からの精髄を「山口組の九〇年」史に編み上げた渾身の労作である。
第一章(山口組の誕生)、第二章(新興山口組の発展と衰退)、第三章(闇市の混沌のなかから)、第四章(港の顔役)と読み進んでいくうちに、読者は、山口組が神戸の地域社会に根をもち、港湾荷役と職域共同体から生まれ、芸能興行を含めた生業を通じて発展したことを知る(田岡一雄は終始組員に職業をもたせることに尽力した)。被差別部落民と在日朝鮮人を多く含む下層社会のメシの食い方であり、「ヤクザは親権力でも反権力でもない。生きていくため、みずからを権力として社会的に立てなければならなかった者たちの対抗権力だったのだ」。たとえば有毒ガスの発生する荷役現場で下請労務者の安全を守る実力闘争を山口組はやり抜く。一次下請・常雇労働者しか組織しえなかった既成の労働運動に対して下請アンコ労務者を組織した山口組の闘いの歴史的事実は、日本“左翼”の抜きがたい“上から目線”に対する批判でもある。
本書の白眉は第六章(高度成長と全国制覇)で描かれた、絶頂にあった田岡一雄と山口組が高度経済成長期に基盤を浸蝕されていく経過であろう。機械をリースで借りた人夫供給業者が「機械付きで労働者を派遣」するかたちから、労働者を調達した機械リース会社が「労働者付きで機械を派遣」というかたちに変わっていった。港湾荷役の業態と労働組織の急激な変化はやがて、山口組をして自らが根ざしていた下層社会の基盤から遊離せしめていく。第九章(近代ヤクザの変質と終焉)では下層社会の統括者としての組の役割を終えたヤクザの変質、終焉に至る過程が描かれ、近代ヤクザ史が締めくくられる。
宮崎氏の「近代ヤクザ肯定」論は、ヤクザを権力の狗だとする通説への反論としてヤクザの隠れた進歩性を立証しようとしたものではない。反動とされていたものを進歩として復権したとしても、反動自体のうちにひそむ意味を抹殺することになるからである。ヤクザ史から“暴力”を負の側面として取り除いて積極面を取り出そうという試みは歴史の偽造でしかない。事実、釜ヶ崎・山谷の労務者によって組織された釜共闘‐日雇全協に敵対したのもまたヤクザである。「肯定論」は下層の人びとの、メシを食うことを背骨にした歴史観として読まれるべきであろう。
近年の派遣フリーターの急増は新たな人夫供給業者を伸展させている。労働現場では親方子方制関係はすでになく、港や寄せ場という地域のつながりもなく流動する、新たな難民、流民、遊民である。宮崎氏はどう見るのか、ぜひきいてみたいものである。氏は、ユニオン(組合)的団結に対するバンド(組)的団結の復興、民衆レベルでの相互扶助としての中国民衆の秘密結社「幇(パン)」の再生のなかに「超近代の無頼が生まれ出て」くることに希望を託す。「その萌芽は、いまのところ、ほとんど見られない……(にもかかわらず)その可能性が現実にならないかぎり、われわれはアジアで生きのびていくことはできないのではないか」との著者の熱い思いには心から共感できる。毛沢東と中国革命が劉志丹はじめアウトローたちを組織し、下層の遊民たちにメシを食えるようにした歴史的事実を評者は想起するからである。
滅んでいった近代ヤクザを生んだ下層の人びとに対するやさしい視線のゆえにか、約九百枚の大著ながら一気に読める。予告された続編『近代ヤクザ論序説』(仮)の刊行が待たれる。
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著者インタビュー『近代ヤクザ肯定論』 エコノミスト(毎日新聞社)2007/0828号
― 力作ですね。山口組を通して見た日本社会史で、とても面白く読めました。ベストセラーの『突破者』と並ぶ代表作だと思います。
■ 取材に5年ぐらい掛かっているからね。話を聞いた人も100人は超えている。ヤクザというものに、僕なりの結論をつけようと思って書いたから。学生時代は左派的なものにとらわれて見えなかったものもあったが、今の視点は全然違う。そこで山口組というプリズムを通して日本の近代史を見たらどうなるか、と考えたわけだ。
― 発生論では、近代ヤクザは、沖仲仕のような港湾荷役を担当する労働組織から生まれたということですね。
■ そう。ヤクザはイデオロギー集団じゃなく生活共同体だった。社会の最下層の人たちが、生きるために親分の下に集まって生まれた。港湾荷役は、不熟練労働者を集めた人材派遣業みたいなもので、ヤクザのような強い統率力が必要だった。山口組もそうした一つで、地域という「ムラ」に根ざした共同社会型ヤクザだった。
― そんな共同社会型から、高度成長とともに利益社会型ヤクザに変化していく時、山口組には先見性と経営者としての才覚がある田岡一雄というカリスマがいたわけですね。
■ 田岡3代目は、貧困と差別でドロップアウトして自分の下に集まってきた男たちを、どう食わせるかを考えた。組員に正業を持てと勧め、それが港湾荷役と芸能興行の企業だった。日本経済が高度成長を迎え、それらの業種からヤクザが追い立てられると、今度は企業社会の「負のサービス」に進出する。企業という「ムラ」社会のすき間に活路を見いだした。
― ヤクザは経済社会の「負のサービス」を担当している、と書かれていますが、面白い考え方です。
■ 近代ヤクザは創設時から経済と密接している。企業社会になっても裏の世界にはニーズがあった。総会屋、整理屋、取り立て屋、サルベージ屋などだ。民事介入暴力、同和利権などの利権にも食らいついた。山口組はこれらの新しい生業をいち早く取り入れた。今だってヒルズ族がもてはやされているが、かつての人材供給に代わって、今はカネそのものを供給するようになっただけ。誰のカネか分からんカネが投資に動いているじゃないですか。
― でも国も取り締まりを強化し、新法でたたいた。それでも山口組は生き延び巨大になった。なぜでしょうか。
■ ヤクザは、生きるために自らを権力とするしかない集団だ。国家権力がつぶそうとすれば、生き残るためにすき間に逃げ込む。小さな組はつぶされても、山口組はその組員を吸収して大きくなる。格差社会の今、ニートやネットカフェ難民などの下層社会はすでにできていて、仕事を持ってきてくれるヤクザがいれば、多少やばいことでもやるやつは必ずいる。実働部隊のフリーター化・派遣化だ。近代ヤクザはいなくなったが、こういうヤクザはなくならないと思う。
(聞き手=長倉正知・毎日新聞情報調査部)
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借金考・再論
- 2003-07-17 (木)
- 本音のコラム
本音のコラム(20回目)7月17日付
5月22日付けの本欄で「借金考」を書いたところ、読者諸氏からたくさんのお叱りや励ましを頂いた。この場を借りてお礼を申し上げるものである。
そこで今回は、もう一度カネの貸し借りについて記す。
借りたカネを返すのは当たり前のことであるから、これを否定する筆者のような考え方は不道徳であるという意見がある。誠にごもっともである。
だが、借りたカネを約束どおり払えない。ここに市井の人の悩みがある。また、生きるためにはカネを借りなければどうしようもないという事情も、人の長い人生の中では起こりうる。つまり、返せなければ借りなければいいという理屈では解決のつかない修羅場が人にはある。
きれいごとでは済まないことがあるのが世の常とするなら、そのきれいごとを金科玉条のごとく唱える例えば親の子に対する行為が、どれだけの情愛の発露と言えるのだろうか。
借りたカネを約束どおり払えない、また将来払えなくなるかもしれないカネをも時には借りざるを得ない。そして結局は払えなくなる。こうした時に人としてどう対処すべきかを教育するのが親の愛である。
借りた金を返せなくなった時、「返すのが人間だ」と言われていた者にとっては、結論としては自死しかなくなる。筆者は金より命が尊いと考える者である。金ごときのために自らの命を絶たせる「道徳的」的な規範を拒否する。まして子供の自死に連なる親のしつけなるものも。
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