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政治・経済 Archive

<3.11に思うこと> ー その10ー

3.11で私の中に潜んでいた、ある感情が暴れ出した。それは「言葉」についての感情である。
もともと私は、プロパガンダ系の「言葉」が充満する社会の中で、ものごころがついた。そして自分からもその種の言葉を大いに使いながら、つい最近まで生きて来たと思う。
そして、もうそうした「言葉」を否定しようと考えていた矢先に3.11と遭遇した。
もともと私は、原稿を書いて生業を建てるようになってから、啓蒙的な文章を可能な限り排除したいという欲求を持っていた。しかし、読者との関係においては、どこかに「啓蒙」が入り込んでしまう。それが苦しかった。
その時私は、「お前は人様に『説教』できるような人間なのか、いつからそんなに偉くなったのか」と自問していた。その私にとって、最近、とりわけ3.11以降、世間で流行のように使われている言葉への反撥がつよくなっている。具体例を挙げると、次の二つの例がわかりやすい。
一つは、政治家が使う慣用語となった感のある「〜しっかりと〜」という言葉であり、今一つは、スポーツイベントの際の集客ために使われる「絶対に負けられない試合がある」というキャッチコピーだ。
この二つに通底する感性に私は、反撥を強めていた。これらの言葉の出自は後者においては言うまでもないことであるが、前者もプロパガンダ系ということで同質ものである。
私はプロパガンダ系の言葉からの離脱を意識しているから、余計にこの種の「言葉」に反撥するのだとは思うが、百歩譲って、同じプロパガンダとしても、このプロパガンダ系を今風に表すとキャッチコピーということになる。そうだとすると、最近のそれには、例えば1983年の「おいしい生活」というくらいのひねりがない。つまり洒脱さがない。洒脱さを欠いたプロパガンダの言葉は、それが表現していることとは、真逆の印象を与える。そして何よりも言葉として肉感性がなく、無機質である。旧社会主義国がスローガンで使った言葉の方が、まだ少しは血肉性があった。
こうしたことから私は最近の「言葉」に反撥していた。
わたしにとって3.11はこうした時に起こり、そして3.11以降に飛び交う言葉の中に、無機質さがさらに増幅していると思うようになった。
こうした無機質な言葉は、社会そのものが無機質になったからだと思う。つまり3.11のような悲惨な状況に直面しても、それを「劇場」としてしか感じることのできない感性の摩耗と貧しさが完了してしまったと私は思う。
さて、その「劇場」化であるが、本当の「劇場」で使われる言葉は実に重いし、肉感性に富む。しかし「自らの身は安全なところにある」観衆としてしか現実の目の前にある歴史に参加しないとする精神を、その根元とする「劇場化傾向に私は反撥しているのである。
こうしたことは「歴史」に対しても同様で、私は「歴史」は「観る」ものではなく「行う」ものだと考えて来た。
その中でも「ガンバレ東北」「ガンバロウ日本」という言葉が、その最たるものだ。その言葉を発する側の人間はあくまでも観衆して位置する。ガンバル側のプレイヤーとの意識の共有はない。それ故に肉感的ではない言葉に終わっている。
この「創られた参加意識」を糊塗するものとして、サッカーの場合はサポーターなるものが、スポーツエンタティメント・ビジネスによって作られたのだのだと私は考える。
さて、3.11以降の歴史に「劇場型」ではなく、主体的にどう関わるのか、自らの歴史の最終章と重ねて歩む時が来たようだ。

(「3.11に思うこと」終わり)

<3.11に思うこと> ー その9ー

3.11が結果として問うことになったものに大手メディアが行う「世論調査」という「儀式」に見られる特性である虚構性とその閉塞性の指向を指摘したこともある。

9月4日の日曜日に、大手新聞各社は、野田新政権に対する「世論調査」の結果を発表している。その結果として出された数値はおおよそ予測通りの内容であった。この数字は前任者の菅氏がひど過ぎただけで、野田氏についての積極的支持ではない。この一連のメディアの調査と発表に問題意識の欠如というか、メディアのあり方として、口先では「被災者の支援」などとは言うものの、その根幹たる精神が欠落しているのを私は痛感した。それは、取りも直さず「被災者」への配慮の欠落である。

私は311以降、何度か被災地の人々と会った。そして話を聞いた。その時、明らかに「特別な思い」を見た。

今、この国の中で、被災者の人々が持っている意識と(私を含む)被災者以外の意識の「差」は明確に存在しているし、むしろこれは当然のことである。

ところで今回、世論調査を行った各社は被災現地に記者もたくさん送り込んでいるし、その「差」については知っていたはずだ。否、知っていなくてはならない。そうだとしたら「彼等」が今回行った世論調査の統計の数値の中から、その「差」を見つけることはいとも簡単であったと思われる。そして、被災者の人たちの意識=世論を抽出した形で発表されるべきものであった。しかしメディア各社は、意識的にか無意識的にかわからないが、それを行おうとはしなかった。

今回の世論調査で思うのはメディアが体質的に持つこの社会の中にある「意識の断層」を知っていながら、それを明らかにせず、耳障りのいい、例えば「絆」というような言葉に「変換」してしまう「業」の深さである。そこから私は、如何ともし難いエリート臭を超えた支配者意識すら感じさせられる。

話は変わるが、私は、今、中国現代史に興味を持っている。中でも1976年の周恩来と毛沢東の死去と中国民衆の意識の変化について興味がある。この1976年の毛・周という中国革命の二人の指導者の死去を、1966年から始まった「文化大革命」を、10年を経た中国の民衆は、どう捉え、どう考えたかという点に関心を持っている。

1976年4月5日の「4.5天安門事件」、これはその後1989年6月4日の「6.4天安門事件」へと続くのであるが、「4.5天安門事件」を私はサイレント・マジョリティ(silent majority)が「戦争」以外で社会的に現出した珍しいケースだと考えている。

結果的には、このサイレント・マジョリティが、江青等の文革4人組を失脚させることとなった。そして次に生まれてきた新しい権力の評価は別として、社会として、歴史を民衆が統一的な指導部の存在なく動かした部分に私は関心を抱いている。もちろん党幹部の権力闘争と深く関わっていたことは容易に推測できるものの、しかしこの1976年の時点から、意識の「外部注入」によって「民衆」を動員するという手法が限界に達したという時代の潮目ではなかったのだろうか、私はそんなことに興味を持っている。現にその後80年代後半から始まったソ連始め、東欧社会主義国の崩壊も、また最近の北アメリカ地域の民衆の運動も、76年「4.5」天安門事件と同質であることから、それがうかがえる。

もともと民衆の意識の底で動いているもの、それはわかりづらい。しかしわが国の民衆の意識も当然変化している。しかし残念ながら、この「変化」は、日本の新聞各社の世論調査からうかがえることは無い。表面的でお仕着せの日本の報道からは、何が「事実」なのかは見ることができない。

そして私は、約1年半前から顕著となった民主党内の「反小沢」キャンペーンは、メディアの「新たな翼賛化」の始まりと捉えていた。3.11の衝撃はその翼賛化をさらに進行させるものとなった。この国のメディアは低劣で新たな閉塞にこの国の民衆を追いやってしまった。

<3.11に思うこと> ー その8ー

全てが様変わりした。
その予兆は、それぞれの分野で既に始まってはいたのだろうけれど、3.11によってそれが全面的かつ体系的な「変化」へと、加速度的に進行している。
この「変化」は、これまでまことしやかに語られ、「常識」とされていたものの総否定と言えよう。
まずは、政党政治が否定されてしまった。
もともと、この国の政治は、自民党による長期にわたる支配があり、それを否定するかたちで民主党への政権交代がありはした。
しかし、自民党支配の時代がそうだったように、この国の政党は、政治理念による結合ではなく、政治家を職業として世襲する利益集団の再分配機関としての連合体であった。そのため機能しなくなって、相久しい。それが民主党・菅政権の下で、より完璧なものとなった。この状況下では、国民が期待したような民主党への政権の交代で「理念」に基づく政治が生まれて来ることはなかった。むしろ自民党時代より、より矮小化したものへと傾斜しつつあった時に、3.11の直撃があったのだ。その結果、矮小化は一気に進行した。それは、官僚へ擦り寄り、取り込まれるかたちだ。このことが菅政権の成立と崩壊の中でより鮮明なものとなった。そして最後に当然の帰結として、野田政権に辿り着いた。
私は、この国では、「より悪い政治」しか生まれてこないという土壌があると言えるのではないかと考えている。「よりましな、次善」選択は、この国では今まで一度として無かった。
そして3.11は、この政党政治的なるものを、それがもともと存在していたかどうかは別にして、完全に壊れてしまった。それについての菅直人の思想的、政治的な陥没状況については、このHPの1月10日付 【素人の好戦性】【玄人の好戦性】で指摘はしておいたので、参照としていただきたい。
私は、この指摘は現在でも間違っていないと確信している。
菅によってスタートし、野田へと継承されたものが何であるかを考える時が来た。
その結果どうなったのか、それは官僚主軸の「オールジャパン」体制、つまり、政党政治が霧消し、新たな官僚翼賛の政治体制が生まれようとしている、暗澹たる事実だ。
さて、こうした背景の中で8月29日に民主党の野田代表が登場し、第95代首相となった。自民党、公明党との連携を掲げる野田氏の下で、民主党内の進行していた傾向が、さらに深化し「最終局面」を迎えることとなった。
そこで、今一つ考えなければならないのは、小泉、竹中が強行した新自由主義的政治が、3.11の被害を拡大させたという、覆い隠すことの出来ない事実の重さだ。
それについては本HPの8月1日付「その5」 で書いた通りである。旧い共同体の破壊だけが進行し、資本の論理が純化して貫徹されてしまったということではないだろうか。
ところで、今回の民主党の代表選挙が行われ、野田新首相が誕生した。この背景にあった支配的な論理は次のようなものであった。
それは、現在のような未曾有の国難の時、国民は「一致協力」しなくてはいけない。大雑把に言えば、これが現在のこの国のメディア、政治家などのエリート及び民主党内の多数派の論理であった。
私はもともとこの「国難」という表現が好きではない。何故かと言うとその後に続く言葉が「国民一致・協力して云々」と読めてしまうからである。つまり表現として「予定調和」過ぎるからだ。
現在のこの国の状況は、「国難」と表現するのではなく、「危機」と表現すべきものと私は考えている。しかし、それはあくまでも表現の嗜好の問題であって、仮に3.11以降の状況が「国難」であるとしても、「一致・協力」を強いる権利は誰にもない。
むしろ、事態は逆で、百家争鳴の熱情ほとばしる議論が、今こそ必要だと私は考えている。
「国民、一致協力」の名の下で根元的な議論を封じた場合、そこには現在の危機に立ち向かう「エネルギー」は生まれてこない。そこには予定調和の結論が待っているだけである。
3.11が投げかけたものは、この国に支配的に存在していたこの「予定調和」が、とりわけ人災の主たる原因だと明らかにしたことだ。振り返って考えるに私自身もこの「予定調和」に抗うことを、馬齢を重ねるにつれ、やめてしまっていた。その反省の上に立って、この精神の退廃からの離脱を求めていこうと私は今、考えている。
この思いを強めるのは8月30日、第95代首相の登場こそが、この国の病根である「予定調和」の産物としか思えないからである。
考えるに、内部に対立のない組織ほど、非人間的なものはないと私は考えて来た。これは、政党でも国でも同じである。熱情に基づく対立があって、激しい議論を経て収斂した時に初めて、「統一や協力」の共同意識は生まれてくる。まず「統一や協力」があるのではない。統一、協力ありきでスタートした場合、意見の違う部分への「排除の論理」が働いてしまう。そしてこの「排除の論理」が不毛な内部対立の連鎖を招くこととなる。
こうしたことから私は、党内に意見の違う派閥が存在することを了とする。そして仮に党内でルールに基づいて決定したことに対して、反対派が従わないとしても、その反対派を「排除」せず、一定期間の後に検証し、仮に少数派が間違っていた場合は、少数は潔く「自己批判」する。
そして、それを多数派は受け入れるとする政党組織文化の中から「統一」や「協力」の精神は生まれて来るのであって、形式的な多数派が今まで言ってきた「党のコンプライアンス
、つまり党の場合、「綱領や規約」優先主義からは、本当の意味の党的な団結は形成されることはない。
野田新政権は、こうした政党政治に対する思想的な退廃の極めに誕生した。    

「素人の好戦性」「玄人の好戦性」その2

 宮崎学である。
 この原稿を約束した時までにアップできなかったことは、大目に見てほしい。忙しいのである。

 さて、先日のことであるが、ワシと同じ「68(ロクハチ)世代」の数名と議論した。
彼らは反小沢三派連合を支持しておるのだが、その代表的な意見はこうである。

コレ(つまり小沢あるいは小沢的なるものを民主党から排除すること)で、やっと民主党の中にある「かつての自民党的な部分」を消すことができる。このことは、民主党が“純化”していく過程としては避けることのできないものだ。

 さらに、「しょせん小沢は、その出自が自民党田中派なんだから」という感情も吐露していたが、この「論」にもならない「戯言」に私は同意しなかった。政治的主張があれば、そこでは当然主張の対立は起きるものだ。それは自然なことである。
 私ら「68世代」が党派闘争、それも同一組織内の対立に「排除と殲滅」の論理を今さらながら持ち出すことには正直辟易する。というか、私自身を省みて、かつて自分が通ってきた道であるだけに「恥ずかしいなあ」と思う。

 「敵対する者の排除と殲滅」と「党の純化」という発想こそが68世代の最大の思想的欠陥であろう。
 その理由は、まず「政治的出自」について言えば、昔の自民党も共産党も、あるいは新左翼、「風呂の中の屁(ブクブク沸いて出るだけ、の意味。念のため)」とワシらが批判していた60年代の市民運動に対してですら、私は「出自」を理由とした「排除の論理と思想」には組しない。
 それは、「同一陣営内の意見対立に排除と殲滅の論理を持ち込んだこと」と、「真の敵との闘いよりも、同一陣営内部の対立に『戦闘性』を極限まで発揮する」ということが68世代が誤った大きな要素だと、今は思うからだ。

 68世代にとっての打倒すべき「真の敵」とは、その時々の与党、官僚などの「この国を支配する者」であったが、要するに“内輪モメ”ばかりして、「真の敵」に対しては内輪モメに使う100分の1の戦闘性も示しえなかったのではないか――というのが68世代に対する私の総括である。

 同一陣営内(すなわち本来は味方)との闘いには異常なまでの執念を燃やすが、本当に闘わなければならない相手に対しては徹底的に妥協的であった。それが、私たち68世代が「壮大なゼロ」でしかあり得なかった所以なのだ。

 したがって、反小沢三派連合の好戦性が冒頭の「思想」によるものとするなら、それは私たちが「壮大なゼロ」で経験したものと同様の「真に対決すべき方向性」を喪失させた「素人の好戦性」ということができる。
 一方、前回で新聞を中心として論じたメディアの翼賛的な「好戦性」は、1930年代にも証明済みの、国民を動員し得る力を持つ「玄人の好戦性」と言えるのではないだろうか。

 さて、明日は民主党大会が開かれる。
 「壮大なゼロ」の再現は見たくない。

2011年1月12日
宮崎学

「素人の好戦性」「玄人の好戦性」

=民主党内対立に思う、その1=
昨年の菅政権の誕生前から、日本の全メディアは、反小沢のスタンスを鮮明にしていた。しかし、その少し前の「政権交代」の時点での基本的なスタンスは、小沢を含む民主党への政権交代を求めるものであった。
メディアが鳩山=小沢政権への批判に傾いたのは地検特捜部による小沢、鳩山に対する「カネの問題」がリークされたときからである。
ここ数ヶ月のメディアの反小沢報道は、異常なまでの好戦性を示している。それは検察審査会の成り行きと並行して、また民主党内の反小沢三派連合の言説と密接不可分にリンクして、その好戦性を高めていった。
そして今はどうか?それを考えるために次にあげる朝日新聞と毎日新聞の記事を参考にして欲しい。

①朝日新聞1月7日社説

①朝日新聞1月7日社説

②朝日新聞1月7日社説

②朝日新聞1月7日社説

③毎日新聞1月8日朝刊

③毎日新聞1月8日朝刊

④毎日新聞1月9日朝刊

④毎日新聞1月9日朝刊

①と②は、朝日新聞の1月7日の朝刊に掲載された社説である。
③は毎日新聞1月8日の朝刊
④は同じく毎日新聞1月9日朝刊の記事である。

この中で少し注意しなくてはいけないのが②の記事である。内容は広島市長の秋葉忠利の退任についてのものであり、民主党内問題とは一見関係無いかのように思われるが、よく読むと、そこで展開されている「論理」みたいなものには、現在の朝日新聞が持った傲慢さというか、思考停止ぶりがよくわかる。

つまり、秋葉市長は退任する理由を自分たちの前で、つまり会見で語らないのはけしからん。それも、ネットではなく自分たちの前でやれと、ご丁寧に、その会見の様子をネットに動画として投稿すればいいと、その方法まで「要求」している。この論理は、小沢問題の時に、メディアが愛用し、反小沢三派連合が今もなお愛用している「説明責任」論と同じ構造である。

これらの「論理」に社会的な相当性はないと私は考えるのであるが、百歩譲ったとして「会見で語ること」=「説明責任」を果たすことにはならない。つまり「説明」の仕方についての裁量権は、説明する側にある。

朝日新聞は社会的な公器であるから、「説明」を聞く権利があるとう考え方なのであろうが、基本的な問題として、朝日新聞が記事を書くのは、「新聞を売るため」の商行為であって、それ以下でもそれ以上のものでもない。取材対象、この記事で言えば秋葉広島市長と朝日新聞の関係は、朝日新聞が「取材してやる」というものではなく、「取材させてください、市長サマ」というのが基本的な関係である。はっきり言えば、国民は自分たちの知る権利を朝日新聞に預ける手続きを取ったこともなければ、宣言したことも無い。つまり、朝日新聞社というのは単なる一私企業であって、国民を代表する権限も、国民の名を使った取材権限も持たない。

そこで①の記事である。
この記事は、現在、問題とすべきは、「小沢」問題であって、「問責決議」問題ではない。野党の自民党や公明党も反小沢三派連合と協力して、まして菅総理は年頭会見で「反省」の意を示しているのだから、手心を加えるべきだというものである。つまり、反小沢翼賛体制をつくれというものである。

私は、今回の民主党内の対立について、メディアが総じて、反小沢という一方向に右へならう状態になってしまったことに違和感を覚えていた(日刊ゲンダイは別)。

かつて自民党内で熾烈に争われた派閥間闘争であった「角福戦争」の時でも、今回のような露骨な報道はなかったと記憶している。
今回は明らかに、地検特捜部、検察審査会、及び霞が関官僚の暗黙の総意つまり「国民の知る権利の代弁」などではなく、反小沢の総意の一番バッターとしてメディアが存在感を示した。そしてそこに書かれていたのは、派閥間の対立を戒める顔つきをしながら、反小沢という一点においては「好戦的」なものではなかったか。朝日の①、②の記事を私はそのように読む。さて、③と④は毎日新聞であるが、③は1月8日の朝刊、④は1月9日の朝刊の記事である。この2本の記事は、基本的には反小沢新聞合唱団的な側面は強いものの、現在の民主党内の実情を知るという点では意味がある。それにしても、考えさせられるのは、メディアの反小沢キャンペーンのボルテージが並行して上がるのと菅の好戦性がアップしていることが特徴である。

今日は疲れたからこれくらいにしておく。
明日は、党内闘争、党派闘争でしか戦闘性を示し得なかった、私を含むロクハチ(68)世代の限界と今回の民主党内対立の思想的問題の相関性を書こうと思っている。

小沢一郎へのアドバイス その8

宮崎学である。

小沢は昨日(3日)、ニコニコ動画の生放送に出た。私は「隠れているのはよくない。ブスッとして歩くにもよくない。大手メディアなどくそくらいで、回答者を誘導するような世論調査なんて気にすることはない。ネットメディアを通じてにこやかに主張しよう。既得権を守ろうとする大手メディア、官僚という守旧派と、新しい国をつくろうとしている政治家、有権者との闘いなのだ
(10月6日の最初のアドバイス)と言ってきた。もっと早く出演すればよかったな。

放送では「今回の問題については、新聞やテレビで正確に真実を報道してもらえない」
として、陸山会事件について詳しく説明した。「ニュースソースは分からないが、捜査の途中経過を詳しく報道するのは、民主主義国で日本だけじゃないか」「政治家、官僚、企業経営者は情報をオープンして、主権者たる国民が判断する。そうすべきだ」「与党になれば、責任を取らなければならない場面があることを分かっていない」「誰も責任を取らない日本社会は駄目だ」
「民主党政権は絶対成功させたい。左右両極の意見が強まるのはいけない」
「雇用をないがしろにする大企業の経営者は反省しろ」などと持論も述べていた。これから毎日出て少しずつ話してもいいぞ。

政倫審や証人喚問への出席には否定的な姿勢を見せた。アドバイス(その7、10月29日)したように、政倫審などに出ても「憲法38条には『何人も、自己に不利益な供述を強要されない』と定められ、被疑者や被告人には黙秘権が認められている。(^_^) 私は現在、被疑者であり、検察審査会の議決により、間もなく起訴されて被告人になる。申し訳ないが、こうした立場上、すべての質問にお答えできない。(^_^;) 検察官が有罪を立証する証拠がないという理由で、私は不起訴になったが、東京地裁が選任した指定弁護士は、鵜の目鷹の目で新しい証拠を探している。そんな 中でお話しできることはない。(>_<) 推定無罪を無視して『犯人視報道』を続けるマスメディアは『逃げた』と報じるかもしれないが、私は逃げてなどいない。堂々と裁判で闘う。分かってほしい <(_ _)>」と言うしかない。

この問題では、大事なことを一つ言っておこう。菅総理や岡田幹事長は補正予算などの国会審議を進めるため、野党と取引して小沢の国会招致を進めようとしているが、まず党内で小沢の国会招致が必要かどうか、議論すべきだ。民主党執行部が小沢の問題について、何を根拠にどんな疑惑があるのか、どうして政倫審などに出なければならないのかを明確に示し、小沢がそれに対して意見を述べる。そんな手続きが不可欠だ。小沢はこうした手続きを求めてみろ。民主的な手続きなしに、大手メディアや官僚という顔が見えない、つまり責任を負わない連中が作った雰囲気に乗っかるだけで、無責任なことを言わせるな。ほかの問題もみんな同じだ。菅総理が無責任で、民主的な手続きも無視するようなら、倒閣運動を起こせ。引きずり下ろしてしまえ。

ところで、アドバイス(その5、10月17日)した大手メディア相手の訴訟はまだ起こしていないようだが、早くやれよ。大手メディアはいいかげんな取材をしているから、訴訟が一番が怖いんだ。弘中弁護士はよく知ってるぞ。

本業が一段落したら、また書いてやろう。

小沢一郎へのアドバイス その7

宮崎学である。

補正予算やら、TPPやらで民主党は大変な騒ぎだ。来年の統一地方選後に連立しようと目論む公明党のご機嫌取りにも忙しいようだ。小沢の証人喚問や政倫審への出席が野党との取引材料になっているが、政治の世界だから取引や妥協は当たり前だし、小沢は堂々と受けて立てばいい。国会に出向かず、逃げたイメージを有権者に与えるのも得策ではない。

ただ証人喚問でも、政倫審でも小沢が語るのは次の趣旨だけでいい。
「憲法38条には『何人も、自己に不利益な供述を強要されない』と定められ、被疑者や被告人には黙秘権が認められている。(^_^) 私は現在、被疑者であり、検察審査会の議決により、間もなく起訴されて被告人になる。申し訳ないが、こうした立場上、すべての質問にお答えできない。(^_^;) 検察官が有罪を立証する証拠がないという理由で、私は不起訴になったが、東京地裁が選任した指定弁護士は、鵜の目鷹の目で新しい証拠を探している。そんな中でお話しできることはない。(>_<) 推定無罪を無視して『犯人視報道』を続けるマスメディアは『逃げた』と報じるかもしれないが、私は逃げてなどいない。堂々と裁判で闘う。分かってほしい <(_ _)>

これだけでいい。ちゃんと顔文字も参考にしろよ。
では本業に戻る。編集者に隠れて書くのは大変だ。でもまた書くかもしれないぞ。

小沢一郎へのアドバイス6 追加

宮崎学である。

きょうの朝日の「私の視点」という欄に、強制起訴制度違憲論が載っていた。書いているのは、元参議院法制局第3部長で弁護士の播磨益夫という人だ。

播磨氏によれば、起訴も国の行政権行使であり、起訴権限を乱用してはいけない。このため有罪の確信がないと起訴してはいけない。起訴権限の乱用があると、最終的には内閣が責任を負う。ところが、検察審査会は内閣から完全に独立した行政委員会なので、起訴権限を乱用しても内閣は責任を負わない。強制起訴の権限を持った検察審査会は三権の枠組みから外れた存在であり、憲法違反-ということになる。弁護団は特別抗告の際、大いに参考にしなさい。指定弁護士選任取り消し訴訟も早く起こせ。

また、大手メディア相手の訴訟はまだ起こしていないようだが、早くやろう。「小沢犯人視報道」が検察審査会の議決を招いたのだ。今後は指定弁護士、裁判官が予断を受ける。「小沢犯人視報道」に対して、とことん闘え。大手メディアの支持者は、実はそんなに多くないから、怖くないぞ。放送局に対しては、BPOにも審査を請求しよう。

頼まれごとがたくさんあって原稿が進まず、担当編集者は相変わらず困っている。

とはいえ、気が向いたら続きを書くぞ。

小沢一郎へのアドバイス その6

原稿の〆切りを守らない宮崎学である。
口うるさい編集者の手前、しばらく我慢していたが、少し書きたくなった。

これまでのアドバイスに従って弘中弁護士に刑事事件の弁護を依頼したようだ。それはよろしい。ただ検察審査会議決の執行停止、指定弁護士選任の仮差し止めの方はまずいぞ。東京地裁、東京高裁と負け続けている。代理人になっている弁護士は、則定衛、川原史郎のヤメ検2人と、かつて小沢の秘書をしていた南裕史だが、国との闘い方を知らないようだ。ヤメ検はやめておけと何度も言ってきたのに放置するから、この結果は自業自得ではある。

物知りの話によると、弁護団は次のような主張をしている。
検察審査会は「検察官の公訴を提起しない処分の当否の審査」(検察審査会法第2条)を担当するとされているのに、今回の議決では、告発がなく、不起訴処分の対象にもなっていない事柄が起訴すべき「犯罪事実」と突然認定された。検察審査会法に違反した議決とそれに続く指定弁護士の選任は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない
と定める憲法第31条に違反している。

これに対し、裁判所は「刑事裁判で主張しろ」と言っている。論理はとってもシンプル。犯罪事実という刑事裁判の話は、刑事裁判で主張しなさいよということだ。

だったら刑事裁判では争えない、次の主張で勝負すればいい。
東京地裁から選任された3人の指定弁護士は検察官役を務めるが、改正検察審査会法によれば、起訴状に書く「公訴事実」は検審の議決に拘束され、検察官のように自由に決める裁量がない。議決に違法な点があっても見過ごして起訴しなさいという規定だ。これは刑事裁判の一方当事者の適格の問題であり、憲法31条や「裁判を受ける権利」を保障した32条、「公平な裁判所による迅速な裁判を受ける権利」を定めた37条などに違反している。改正検察審査会法は違憲立法である。

最高裁への特別抗告でこの主張をぶつけてみろ。また、新たに指定弁護士選任取り消しの訴訟を東京地裁に起こし、最高裁まで争え。

実は、指定弁護士の権限は立法段階でも論点になったそうだが、法務省が「指定弁護士ごときに検察官と同等の裁量を与えるのは許されない」として制限したという話も聞いている。

さらにもう1点。憲法は「公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利」(第37条)を保障しているが、裁判員制度の導入に当たり、政府は国会答弁で「憲法は裁判官の独立や身分保障を定めているので、37条の『公平な裁判所』は基本的に裁判官を想定していると考えられる。ただ裁判官以外の者が加わることを禁じていない」という解釈を示し、裁判員法は合憲としている。裁判に国民が関与することに抵抗してきた最高裁も、裁判員の多数だけで有罪にできない(裁判官1人以上を含む過半数で有罪を決める)制度で一応矛を収めた。起訴は裁判の一部であり「検察官が行う」(刑事訴訟法第247条)とされ、例外として、裁判官による特別公務員暴行陵虐事件などの付審判手続きがある。改正検察審査会によって、例外がもう一つ増えたが、裁判官の関与がない。

裁判官はもともと、国民などというものは、とんでもないバカで何も分かってない、自分たちを中心に司法は動いていると考えている。だから「やはり裁判官や検察官じゃないと駄目です」とくすぐってやればいい。この点だけは、ヤメ検も検事当時、自分が権力と誤解していたから分かると思う。裁判員制度と改正検察審査会法をからめて、国民の司法参加が合憲か違憲かを問いなさい。

ところで最初のアドバイスに書いたように、東京地裁や東京第5検察審査会に対し、職権で議決をやり直すよう求める申し立てをしたんだろうな。これも重要だぞ。

それにしても、どんどんややこしくなるなあ。アドバイスを書くのも疲れる。でも本業の合間に気が向いたらまた書いてやろう。

吉田繁実弁護士への懲戒請求 その3

宮崎学である。

昨日10月20日に第二東京弁護士会から届いた吉田繁実弁護士を対象弁護士とした懲戒請求に関する調査開始の通知をアップする。

担当編集者が怒りだすので今日はこれくらいにしておく。

「懲戒請求事件の調査の開始について(通知)」(PDFファイル)

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