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本音のコラム Archive
借金考・再論
- 2003-07-17 (木)
- 本音のコラム
本音のコラム(20回目)7月17日付
5月22日付けの本欄で「借金考」を書いたところ、読者諸氏からたくさんのお叱りや励ましを頂いた。この場を借りてお礼を申し上げるものである。
そこで今回は、もう一度カネの貸し借りについて記す。
借りたカネを返すのは当たり前のことであるから、これを否定する筆者のような考え方は不道徳であるという意見がある。誠にごもっともである。
だが、借りたカネを約束どおり払えない。ここに市井の人の悩みがある。また、生きるためにはカネを借りなければどうしようもないという事情も、人の長い人生の中では起こりうる。つまり、返せなければ借りなければいいという理屈では解決のつかない修羅場が人にはある。
きれいごとでは済まないことがあるのが世の常とするなら、そのきれいごとを金科玉条のごとく唱える例えば親の子に対する行為が、どれだけの情愛の発露と言えるのだろうか。
借りたカネを約束どおり払えない、また将来払えなくなるかもしれないカネをも時には借りざるを得ない。そして結局は払えなくなる。こうした時に人としてどう対処すべきかを教育するのが親の愛である。
借りた金を返せなくなった時、「返すのが人間だ」と言われていた者にとっては、結論としては自死しかなくなる。筆者は金より命が尊いと考える者である。金ごときのために自らの命を絶たせる「道徳的」的な規範を拒否する。まして子供の自死に連なる親のしつけなるものも。
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動物、女性、子供
- 2003-07-10 (木)
- 本音のコラム
本音のコラム(19回目)7月10日付
不況が続く日本の映画産業なかで、比較的リスクの少ないストーリーとして重用がられているのが、動物、女性、子供が登場するものとされている。
これは映画に限らずテレビを含む映像のキーワードでもある。
こうしたことから見ると、湾岸戦争時における油まみれの海鳥、今回のイラク戦争での女性捕虜などは、プロパガンダの手法としては現代的で理にかなったものとは言えよう。
ところで、社会の諸現象は「結果」である。それには必ず「原因」がある。この視点からイラク戦争を捉え返してみると、この戦争の原因は「大量破壊兵器の存在」であった。
ところが、ソレがないというのが結果であった。原因がなく結果だけがあったのである。こうなると、米英に残された最後の手段としては、原因を創造するしかない。そこで、映像メディアの手法が助け船となる。
例えば、ジョージと呼ばれる賢い軍用犬が砂漠に埋められていた大量破壊兵器を見つけたというストーリーが考えられることとなるであろう。そしてジョージがニューヨークに紙吹雪の凱旋を行う。これなどは好まれそうな絵柄である。もともと大量破壊兵器の最大の保有国は米であることは周知の事実であり、米本国からこっそり運び埋めておくなどお手のものであろう。
結果と原因に対する冷静な考察が放棄され、映像的に創られた結果だけで時代が流れていることには、違和感を越えた閉塞感を抱くものである。
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甲区と乙区
- 2003-07-03 (木)
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本音のコラム(18回目)7月3日付
土地、建物などの不動産の登記ほど現代社会の「幻」性を物語るものはない。
土地、建物の登記簿は所有権を示す欄として甲区といわれる部分、抵当権等を示すものとして乙区とする部分に分類されている。
例えば住宅ローンで一戸建てを購入した場合、甲区には「所有者」の名前と住所などが記載され、乙区にはローンを組んだ銀行などの金融機関名と借入金額などが記載されている。国民の間に強くあるとされる「持ち家」願望というものは、結局のところこの甲区欄に自らの名前を記したいというものである。
ところが法的にはなるほど甲区は所有者と言うことであるが、ローンの返済が滞れば、自動的に乙区の抵当権者が権利を行使し競売ということとなり、所有権者の立場は抹消される運命になる。極論すれば、甲区は店子、乙区は大家の関係に近いものと思われる。
大家は店子が月々の支払いが出来なくなればいつでも追い出せるという権利関係にある。
そうだとするなら、ローンで家を買うという行為が果たして「持ち家」願望を実現するものと言えるのだろうか。そのうえ、仮に30年のローンを組んだとした場合、その発想の根底には30年間病気もせず無事に過ごし、なおかつ定期的収入が継続するという大前提がある。これは「幻」というのではないだろうか。甲区欄に名前を記すということが「持ち家」願望の実現と思いこみ「努力」することの意味は、実に虚しい。
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多数派の性向
- 2003-06-26 (木)
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本音のコラム(17回目)6月26日付
世の中には理解に苦しむことがたくさん起きるものである。例えば、テレビの視聴率の最近の傾向として、イラク戦争中にもかかわらず北朝鮮報道の方が視聴者に好まれ視聴率が高いということなどもその一つである。
テレビが流す北朝鮮報道の特徴は、表面的な現象を同じ映像と同じ趣向で繰り返し流すというものである。北朝鮮という国家、朝鮮労働党という党が、歴史的、国際的にどのように形成され、何故結果として悲劇的な現状に立ち至っているのかと言うことを報道した番組にお目にかかったことはない。しかしイラク戦争報道の場合は北朝鮮報道とは違い、その原因と結果、そして論理を報道しなくては、テレビ番組として成り立たなかった。こうして曲がりなりにも目の前で起こる事態の原因と結果を検証しようとする報道を視聴者が好まなかったということなのであろう。
目の前で起きる事態への「情緒的」で「軽い」反応、それが現在の多数派の性向である。この性向は、小泉内閣の支持率と通底するものである。つまりリストラにあってもなお「痛み」を与えた政権を支持するサラリーマンとその家族の気分がこれである。イラク戦争報道よりも北朝鮮報道を好む気分と同質のものである。
原因があるから結果がある。小泉内閣の失政があるから今の不況が、そしてリストラが倒産があるのだ。こうしたことの原因をこの国の多数派は見たくないようである。
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対立と相似
- 2003-06-19 (木)
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本音のコラム(16回自)6月19日付
社会には、様々な対立がある。またその対立が歴史を動かしてきた原動力でもある。この対立には、民族、宗教、国家、階級、党派、そして文化等々があり、その種類は実に多様である。
ところが、その対立は厳しければ厳しいほど対立する相互が瓜二つのものになっていくという宿命的ともいう特徴がある。例えばユダヤとナチである。ナチによって徹底したジェノサイト(民族浄化)の被害を受けたユダヤは、まったく同質の行為を今パレスチナに行うこととなっている。
こうした例もある。旧ソ連を中心とする社会主義と対立したアメリカは、旧ソ連がスターリンの下に企図した「革命の輸出」と同質の「グローバリズム」を今求めるに至っている。
つまり対立し敵対した相手の悪しき体質をさらに純化させ、その胎内に醸成していくということである。
こうして対立は新たな対立を再生産するという輪廻転生的な側面を持つ。とかく人の営みとは、かくも空疎なものなのである。そうであるなら、人は対立する渦中にあるとき、その対立は虚ろなものであると言うことをどれだけ自覚できるかが「知」の水準ということになるのではないだろうか。
そして今アメリカは反テロリズムということでイスラムと対立している。また日本は反北朝鮮と言うことで対立の感情を露わにしている。こうしたことの結果がそれぞれの内にテロリズムと朝鮮労働党的なるものを間違いなく育んでいくのである。
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表象性なき敵
- 2003-06-12 (木)
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本音のコラム(15回目)6月12日付
人の歴史は闘いの歴史である。この言葉はけだし名言である。
人は戦うときに数々のドラマを体験する。それが蓄積されて、文化が生まれる。
闘いの中での喜怒哀楽は実に身に迫る説得力を持つし、共感を呼ぶものである。
しかし、現代に本当の闘いというものが存在するのかどうかは、はなはだ疑問である。
サッカーや格闘技熱は、それを見物する側が感情移入し、あたかも自らが戦っているかのような錯覚を楽しむというものである。この際、自らは絶対に安全なところに身を置いているということにその特異性がある。
さらに、そこで展開される、サッカーにしろ格闘技にしろ、それは闘いではない。闘いを連想させる擬似行為である。
擬似行為を闘いと称し、それを見物することも闘いと思いこむこの精神は、自らが敵とするものが表象性を喪失したことから始まったと思われる。
たとえば国家権力を敵としていたとき、機動隊という存在は、暴力という表象性を持っていた。そして、この敵と対峙している側には、肉感的な情感が蓄積され、それなりの文化が形成されたものである。
それがいつ頃からか変化し始め、国家権力=暴力という表象性が消失したかのように見える。権力がバーチャルなものとなるに連れて、それと対峙する側も同様になってしまう。
こうして、人の歴史は闘いの歴史という言葉がその血肉性をなくしていった。
はたしてこの名言の復権はあるのだろうか。
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法の下の不平等
- 2003-06-05 (木)
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本音のコラム(14回目)6月5日付
本年5月1日、山口組幹部の桑田兼吉氏に対して上告棄却の最高裁決定が下された。これによって同氏の有罪は確定した。
この事件は、警察の逮捕、検察の起訴という初発の段階から、典型的な権力の濫用そのものであった。そうした内容はさておき、最高裁でこの裁判を担当したのが、元神奈川県警本部長の伴侶の女性判事であるところに問題の深刻さがある。
警察不祥事の総合商社といわれる神奈川県警では、取調室で警察官が元ヤクザを射殺したとされるいわゆる「戸部署事件」があり、横浜地裁の民事はこの事実を認定したものの、刑事ではお構いなしという整合性に欠ける事態が発生しているところである。つまり、きわめて不正常な警察行政の責任者として関与した可能性が高い伴侶が最高裁の判事として存在しているということは、どのように強弁しようと社会的公平性を欠くものと言わざるを得ない。
これまでのこの国の裁判所は、警察官の犯罪に対しては、一般と比較して5割安という判決を重ねてきた。このことは、現代社会における建前としての「法の下の平等」が完全に崩壊しているという証左である。
今回の桑田判決は、裁判所が不平等に加え「人」の問題まで内包していることをはしなくも露呈した。
社会のシステムとして裁判所にその役割を求めるということはもはや無駄ということである。官の官による官のための裁判が、今後も行われてゆくであろう。
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官僚と政治家
- 2003-05-29 (木)
- 本音のコラム
本音のコラム(13回目)5月29日付
5月23日、「個人情報保護法」が参議院を賛成多数で通過し成立した。
この法のイカガワシさは、これまで何度も指摘してきたので、ここではあえて触れない。
問題はこうした法案がかくも簡単に成立してゆく構造である。もともと絶対多数の連立与党がそこにある以上、国会の場における攻防の帰趨はハナから明らかである。
国会での法案成立の可否は、もっぱら与党の意志によるところであって、野党やまして反対運動の意志など実に非力なものなのである。
さらに醜悪な事態はこうした国会の状況を受けて反対する側、つまり野党側が次の選挙で多数派になれば解決できるとする論理にある。
何故なら、野党が次の選挙で与党に仮になったとしよう。その時与党となった政党が、今回提出されたイカガワシい数々の法案と同質のものを持ち出さないという保証はない。
こうした絶望は、この国の政治が官僚によって行われていて、政治家はピエロとして国会という舞台で監督たる官僚の書く台本の役割を演じ、そのギャラとして何がしかの利権を与えられるという構造が原因である。
残念ながらこの構造こそが明治維新以降連綿と継承されている我が国の姿ではないだろうか。
個人情報保護法が成立した今、官僚は「汗をかいた」与党政治家にどのようなギャラを払うのか、このチェックが反対の意思を表明した者の責務と思う。
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借金考
- 2003-05-22 (木)
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本音のコラム(12回目)5月22日付
金を借りる、金を貸すと言う行為はきわめて単純な契約に基づく経済行為であって、「道義」が問われる類のものではない。
そして、この契約は、借りた金が返せなくなったときのことまで約定しているものである。
もう一方で、「借りた金は返すのが人の道」という理屈があり、最近ではこれが横行している。「人の道」というのなら、最低限金利は取らないということになるのだが、高金利を取る者ほど「人の道」にうるさいようだ。「道義」は契約することなどできないものなのである。
もともと銀行という存在はその本質は金貸しなのであるが、最近は国家からタダのような金利で無尽蔵に金を引き出す金借りに「成長」している観がある。そしてこの金借りは、利息の鞘を抜いて、本当の金借りに金を貸すのであるが、その低俗な経済行為さえ、貸しはがしに見られるように機能しなくなっている。
この国において、金を貸す、借りるという経済の基本構造が、為政者の過剰な介入により完全に破綻しているというのが現状である。
こうした時、住宅ローンを含み、借金を「マジメ」に返すのは、全くの愚行である。ためらいもなく全ての借金を堂々とそして明るく踏み倒す時が来たように思われる。どのような種類の借金であっても、踏み倒すことによって失うものは、なんの意味もない「見栄」だけである。
ちなみに私などは、数十年前からこれを実行し、何ら不利益を受けていない。
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この国の閉塞
- 2003-05-15 (木)
- 本音のコラム
本音のコラム(11回目)5月15日付
人は何らかの社会的な目的を持ったとき、まず志を同じくする者を募って組織を作る。
その際の目的とは、金儲けであったり政治目標だったりする。
こうした考え方があること自体は、好きではないが認めるものである。それは大海原に出るときに船に乗るのが常套の手段という意味においてである。
ところがこの組織というものはやっかいなもので、時間を経ると目的は喪失してしまい、組織そのものを維持することが目的と変質してしまう性を持つ。
この傾向は組織が生活の手段となることによって加速する。
ここに「組織のために」というまことしやかな論理が生まれてくる温床がある。
しかし、目的を喪失してしまった組織は、存在する意味はない。営利を追求する組織として誕生した企業組織は、儲からなくなれば維持してゆく必要はないと考えるのが自然だ。
まして政治組織などは企業よりもっと厳しくあるべきだ。政治組織は、それを支持する人達の善意によって支えられているだけになおさらである。数十年もの間、時には100年近くも、目的が達成されないとしたら、もはや存在すること自体、害悪といわざるを得ない。
民間企業はそれでも、利益が上がらない場合は倒産という事態に陥り、自然に消滅する。ところが政治組織は、目的から全く遠のこうが、存在すること自体に意味があるといった屁理屈で生き残ろうとする。
この国の閉塞は、こうした組織の論理に代表される。
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