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表象性なき敵

本音のコラム(15回目)6月12日付

 人の歴史は闘いの歴史である。この言葉はけだし名言である。

 人は戦うときに数々のドラマを体験する。それが蓄積されて、文化が生まれる。

 闘いの中での喜怒哀楽は実に身に迫る説得力を持つし、共感を呼ぶものである。

 しかし、現代に本当の闘いというものが存在するのかどうかは、はなはだ疑問である。

 サッカーや格闘技熱は、それを見物する側が感情移入し、あたかも自らが戦っているかのような錯覚を楽しむというものである。この際、自らは絶対に安全なところに身を置いているということにその特異性がある。

 さらに、そこで展開される、サッカーにしろ格闘技にしろ、それは闘いではない。闘いを連想させる擬似行為である。

 擬似行為を闘いと称し、それを見物することも闘いと思いこむこの精神は、自らが敵とするものが表象性を喪失したことから始まったと思われる。

 たとえば国家権力を敵としていたとき、機動隊という存在は、暴力という表象性を持っていた。そして、この敵と対峙している側には、肉感的な情感が蓄積され、それなりの文化が形成されたものである。

 それがいつ頃からか変化し始め、国家権力=暴力という表象性が消失したかのように見える。権力がバーチャルなものとなるに連れて、それと対峙する側も同様になってしまう。

 こうして、人の歴史は闘いの歴史という言葉がその血肉性をなくしていった。

 はたしてこの名言の復権はあるのだろうか。

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